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舞鶴公園 |
歴史への招待 |
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■ 福岡城跡 |
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| 舞鶴公園のシンボルといえば「福岡城跡」 いつ頃つくられ、当時の城はどのようなものだったのでしょうか。 関ヶ原の合戦での論功行賞により、筑前52万石の大名になった黒田長政が慶長6年(1601)から7年がかりで築城した城です。 慶長5年、黒田長政が筑前国主として入城した名島城は三方を海に囲まれ、後背地も狭く、これからの大国経営の拠点としては不向きでした。そこで、新しい城と城下町の建設場所として、選ばれたのが、博多の西隣、福崎(旧那珂郡警固村)でした。 この地には、古代太宰府の鴻臚館がおかれ、対外交渉の中心地でしたが、当時は荒地に近い寒村であったため、大規模開発が可能でした。 城の特徴は平城で、天守台、本丸、二の丸、三の丸と櫓47棟を構え、各地の城のなかでも特に雄大な規模でした。総面積24万坪(約80万m2)、内堀の周囲約4,700mに及ぶ石の城で、世に「石城」と称され、そのモデルは朝鮮の普州城であるといわれています。 「福岡」という地名の由来は、黒田氏の出身が備前国邑久郡福岡であったことから、地名を福岡と改め、福岡城とした。また博多湾からの景観から「舞鶴城」とも呼ばれました。 明治以降、陸軍の連隊の駐屯などにともなって、城郭建物のほとんどが失われ、城跡に現存するのは、大手門、潮見櫓、多聞櫓、石垣、内濠などです。 なお、昭和32年8月、国の史跡に指定され、城跡公園として福岡市が管理しています。
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■ 鴻臚館跡 |
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![]() 昭和62年12月、福岡城跡のある舞鶴公園の平和台野球場改修工事に伴う発掘調査で、鴻臚館の関連遺構が発見されました。 鴻臚館は平安時代、平安京、難波、筑紫の三カ所に設置された外交施設です。大陸からの使節を接待・宿泊させる迎賓館であるとともに対外貿易の窓口でもあり、古代日本最大の国際交流拠点でした。 その名は古代中国で外国との交渉を司る「鴻臚寺」に由来し、「鴻」は大きい、「臚」は伝えるという意味があります。筑紫の鴻臚館は飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、持統2年(688)日本書記の記事に初めて登場し、永承2年(1047)、太宰府が宋人宿坊への放火犯人4人を捕らえるという記事をもって文献上から消えていきます。 筑紫館・鴻臚館が文献上にあらわれた期間は、実に359年間に及びました。 現在、福岡市教育委員会は鴻臚館の全容解明のための本格調査を継続し、遺物出土品は展示館で見ることができます。
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